特別攻撃隊の真実を記録することこそが、残された私の義務

特攻・巡礼行|板津忠正

心の重荷を背負って

特攻巡礼行

はじめに

板津さんは特攻の事実を後世に伝えるために、全国を回り資料を集めます。ここでは、資料集めるに至った思いや、旅路での出来事、苦労したことを一部紹介しています。(・・・管理人)

特攻・巡礼行

私は、昭和20年4月20日、特攻隊員として振武隊員を命ぜられた。隊員に任命後は将校下士官とも同じ部屋に起床し、食事も将校集会所で一緒にとっていた。5月25日、加古川飛行場(兵庫県)を後にして鹿児島県知覧基地へ向かった。
知覧に移った早々、5月28日の黎明、我々は出撃した。知覧から30機、万世より13機が突入した。しかし、私の搭乗機は機関に故障を起こし生き残る羽目になってしまったのだ。私はたえきれない重荷を負いながら、本土決戦要員として知覧に駐留し終戦を迎えた。

私の軍歴を通して得られた精神力は、この後いい知れない原動力となって私を励まし、支えてくれた。

昭和30年隊員が壮途につかれた思い出深いこの地、木佐貫原に若人の至純の霊の永久に安からんことを祈念し特攻平和観音が祀られた。昭和49年平和の守護神として特攻銅像「とこしえに」が建立された。また、50年遺品館が竣工開館し特攻隊員の遺影・遺品・絶筆などが展示されて訪れる人たちに平和の尊さを改めて思い起こさせている。このほか「我突入す!!」「特攻成功!!」を受信した通信隊跡、作戦指揮所跡やまた出撃命令を受けた隊員が人生最後の夢を見た三角兵舎跡も残されている。

昭和36年8月戦後2度目この地を訪れ、観音堂に1015柱のみ魂が祀ってあることを知った。容姿端麗な開聞岳を望むこの台地に遙かに沖縄の空を仰ぎ16年前の思い出を胸に感無量であった。

知覧町は、薩摩半島のほぼ中央に属し伊集院からの南薩鉄道の終着駅であったが、昭和39年廃線となっている。現在は、鹿児島市からバスで国道225号線を南下し、手蓑峠を越えて1時間余麓川の水清く山あいの静かな城下町である。街の中心地は時代の流れにそい道路の拡張工事が行われ、かつての街並みが消えて行く、わずか麓川にかかる永久橋とその周辺にそれを見ることが出来る。

当時隊員は、飛行場から町に出て来ると必ず富屋食堂に集まって、それから兵担旅館や思い思いの所に散って行った。ここの主が特攻小母さんといわれた鳥浜とめさんである。とめさんは隊員を我が子のように世話をし、隊員もまた母親のごとく慕っていたのだった。

板津忠正氏の遺書

特攻平和観音参道に建立した灯籠が縁で、戦後29年たった昭和49年5月3日の特攻慰霊祭と特攻銅像除幕式に参列した折、初めてお目にかかる浦和在住の永崎笙子さんから、これは「貴方のですか」と私の遺書を目の前に出された時は、いささかびっくりした。

この方は、当時私がお世話になった女学生のお友達である。この灯籠には、私が特攻生存者である事が刻み込まれていた。そして遺書にある同じ名を見付けて、以後この遺書を持ってお参りに来た。献灯された方ならこれから先もいつかきっと来られるだろうと信じて所持していたとか。

それにしてもよく29年間保存して下さったものだ。返していただいたこの遺書は今でも大切に保存している。

なでしこ部隊

知覧高女3年生で結成した、なでしこ部隊が特攻隊員の身の回りの世話をわずか3週間で終わったことについては、当時もいろいろ取沙汰されたが、それは女学生の一人が特攻隊員の出撃に是非一緒に乗せてほしいと頼み、真剣さと乙女の純情さにうたれ乗せて出撃しようとして問題になり、奉仕を中止にしたとも聞いた。また彼女の意思のみで特攻機に隠れ、突入したいとの考えであったかもしれない。

当時の大和撫子にはこのような気概を持った人も多くいたように思う。私が寝起きした兵舎は三角兵舎といって飛行場よりかなり入った松檜等でうっそうとしていた林の中にあった。半地下式のバラック建で地面に三角形の屋根がかぶさっていたようだった。空から見ないよう樹木で擬装されていた。

このころには、蒲団は全部絹夜具にて中には羽根蒲団さえ見受けられた。知覧町の人々が、夢見る数も少ない特攻隊員のために最後の夢を軟らかく温かくとの思いやりから出して下さったと信じ今でも感謝している。

特攻の資料収集

特攻隊員には国を憂い私情のすべてを無にして殉じた清純そのものの青春群像であった。特攻を美化する気持ちはないが、再びあの悲惨を繰り返さないためにも、特攻隊員の死を正確に理解し歴史の一コマとして真実を後世に伝えたいと思う。

百年、二百年後、我が国の歴史に一大改革を及ぼした大東亜戦争が語られる時、世界に類のない決死的戦術、自ら武器となり飛行機を操縦して艦船に突入する特別攻撃隊の真実を残しておかねばならない。どのように評価されるとも真実を記録するのが残された私の義務と思うようになった。

戦後34年ご遺族も隊員のご両親の多くはおなくなりになり、兄弟姉妹の時代になって来ている。資料収集も今が最後のチャンスであって次の世代には忘れ去られるであろう。あたら貴重な資料が散逸するのを恐れ状況説明と資料収集が私に課せられた役目であると思っている。

昭和49年以来単身で始めたご遺族訪問は住所がわからず困難を極めている。現在私の手元にある住所録は昭和28年12月復員局駐留守業務部が作成した陸軍特攻戦没者名簿と、昭和39年2月。知覧町役場が全国都道府県の手数を煩わし作成した陸軍特攻隊員御遺族芳名録とであるが、これもその後の町村合併や住所表示の改正により、差し出す手紙も多く戻ってくる。それでも70名余と連絡がとれ、その資料収集もかなり成果を収め知覧特攻遺品館に数百点の遺品と一緒に展示されている。

ご遺族訪問もつとめの片手間であった。したがって土曜日の午後、日曜日は近郊を訪ね遠隔地の訪問には旅行・出張等を最大限に利用した。一軒の家を探すのに幾日も要したり、せっかく訪ねても不在であったりする。しかし次に訪問し状況説明にご理解いただきねぎらいの言葉をかけられると、本当に来てよかったと思い疲れも吹き飛んでしまうのであった。

ご遺族がわが子、兄弟がどのようにしてどこから飛び立って行ったかを知りたい気持ちは切実である。

第102振武隊員金沢富士雄伍長のお母さんすゞゑさんは、戦前名古屋市の中心地で酒屋を営んでいられたが戦災を受け、すゞゑさんの実家のあった春日井市へ転居された。長男の富士雄伍長が特攻隊員として4月12日出撃したことは、目達原から整備員によって知らせがあり、鹿児島県加世田の「飛龍荘」よりも遺品を送ってきた。また知覧役場よりも特攻観音堂が建立された金沢伍長がお祀りしてあることの通知を受け取った。加世田に泊まり知覧から出撃して行ったのかと思っておられた、南九州へも行った沖縄にも行った、しかし本当のことはわからず息子の出撃地探しも諦めかけた時に、私が戸籍、電話等によって金沢さんを探し出し49年秋訪問した。

富士雄伍長の出撃地は、加世田市にあった万世基地であることを伝えた。その知らせは諦めかけていただけに大変喜ばれ感謝された。

板津忠正軍曹(当時20歳)

突撃前の板津忠正軍曹(20歳)

緒方勲様宅の遺書

また、遺書、遺詠も比較的少数しかご遺族の手に残っていない。ところが熊本県菊池郡西合志町合生梅屋敷、緒方勲様宅には特攻隊員の真筆が多く遺されていた。

私は知覧に前進する前菊池飛行場に着陸、大きな農家にて一晩お世話になったことがあった。その家は前庭に池があり裏には梅林、家の隣に大きな剣道道場があった。池には鯉が泳ぎ私は釣り糸をたれた記憶があった。なんというお名前にお宅であったか知ろうとしなかった、死を直前にしていたのでそれも当然かも知れない。しかし後年になってから泊瀬川ひろしさんのことと、この二つが心に引っ掛かっていた。

昭和51年秋名古屋にも全国電話帳コーナーがあることを知った。菊池郡の誰彼となしに電話し、池と剣道場のある家を聞きまくった。菊池郡には七個町村がありなかなかわからなかったが根気よく聞いた。何日も過ぎた土曜日の午後の7通話目文字通りラッキーセブン、ついに合志町のお医者さんより確かな手応えがあった。それは隣の西合志町の緒方さんではないか、私の剣道の先生であること。この時の喜びは永年の心のつかえがおり、ほかにたとえようのないものであった。

12月に入り待望の緒方様の住所氏名が確実となり今日までの経過、知覧、万世の状況等写真を同封そして機会をみて一度お邪魔したいむねの手紙を出す。12月13日緒方様の奥さんより懐かしいとお電話があり、家に小椋様(私の旧姓)の書いた物があるといって電話の向こうで読み上げてくださる。署名もありまさしく私の物である。泊まった証拠があり是非いらして下さいの言葉に暮れの29日に訪問が実現した。

ご主人の勲氏は明治31年生まれ白髭のあごひげの立派な昔の剣客を彷彿させる人で、当時は将校として偶然にも私の里犬山地方に派遣され私とは初対面であった。奥さんは明治41年生まれにてご近所の方々隊員のお世話をなされていたのだ。緒方家は新蔭流の正統をつぐ名家である。

早速特攻隊員が遺した遺詠を拝見させていただく。 散華された隊員、戦死者名簿にない隊員のと合わせて百五十点余、あまりの数の多さに驚き、これほど多くの遺書、絶筆が遺されている理由を伺うと、奥さんは代々この家に武者修業の途中立ち寄った修業者には必ず一筆かき残していただく習慣があり、それにならって来られた隊員が書き遺したものですとおっしゃった。和紙を綴ったのが五冊あった。

ご主人は戦後米国駐留軍が調査に来た折、40振り程あった刀は惜し気もなく出したがこの遺書だけはかめに入れ土中に埋め隠すのに苦労した、そしてこれから先、保存するのに自信が無い、また自分たちが所持していても活かすことが出来ず、知覧の遺品館に展示し一般に公開したほうが好ましいと思うし、またご遺族にお返しするかその処置は私に委ねる、と申し出られた。私はこれらは緒方家に書き残されたものであり由緒ある名家にあってこそ相応しい物であると辞退したのであるが、強く要望されたのでお受けした。 このように緒方様が特攻隊員の遺書を残して下さったことは誠に有り難く感謝の言葉もなかった。

31年前自分の心境を詩で残したものを目の前にしてうれしかった。また私と同じ隊員で同期正5人のも保存されご遺族の喜びが目に浮かんで来た。 後日、この遺書の処置については、5冊とも、結局5月3日の33回忌に知覧にもっていき展示をお願いした。それまでに遺書、遺詠を全部コピーを3枚ずつとり、フィルムに収め戦死、生存者名を作成し、各一を知覧の特攻遺品館に送り、住所の判明せるご遺族には送付したが、まだ未調査で住所がわからず私の手元に多く残されている。

翌朝緒方家を辞し隈府の元特攻宿舎菊栄旅館を訪ねたが、当時の面影はなく何人かの所有になっていた。

ここは私の同期生第76振武隊員の小島英雄、中川芳穂、鈴木啓之伍長等も泊まっており、人の手に渡っているのが残念であった。ただこの旅館の隣の米屋さんの実家であった江島美成子夫妻に色々聞くことが出来たのは幸いであった。

この日佐賀県三養基郡北茂安町中津濃にある、元目達原基地の特攻宿舎の一つであった中尾しな様宅をも訪問、ご主人富士太郎氏は昭和50年80歳にて死去され、生きていれば喜ぶのに、と奥さんのしな様より当時の説明を受けた。ここにも隊員の絶筆8点が遺されている。

ついで翌日同県神崎郡東背振村の西往寺を訪問。ここはかつて第72、第102振武隊の宿舎であった。住職南生運氏のお母さんが隊員の泊まった部屋に案内して語って下さった。また新聞の切り抜きをたくさん保存しておられた。

今度の旅は、充実し資料記録も十二分に収集出来たことは幸運であった。 先に述べた永崎笙子さんや、特攻小母さんの娘さん赤羽礼子さんらで編集された「知覧特攻基地」の資料提供はこのような足跡を残して得た結果であり、これからも出来得る限り訪問は続けていきたい。

特攻戦没者追悼式

また毎年5月3日知覧において特攻戦没者追悼式が行われており、私も毎年ご遺族と同行して参列している。全国から多くのご遺族が参列されているが、このうち私の訪問によって追悼式の存在を知り毎年来られるようになった方も多い。

その中の一人から「どうせ知覧に出掛けて行っても、元気な生残った方々を見ると心の中に何か滓のようなすっきりとしないものを残して帰るだけと覚悟して参列したのだが、一度に取れたような気分で帰りました。この33年の歳月の何と長いようでもありまた短く、あまりにも強烈としかいいようのない事柄ばかりでした」とのお手紙があり、「現地知覧の人達は私達遺族と同じく未だ戦争の傷が癒えていない感じです」と結んであった。

しかし慰霊祭や三角兵舎の供養のあることを知らないだけでなく、知覧より出撃して行ったことすら知らないご遺族がまだまだ多い。今後も一人でも多くのご遺族を捜しこれらの模様をお知らせすることによって私の心の重荷が軽くなれば、これほど幸いはない。

1979年(昭和54年)9月1日 元陸軍伍長 板津忠正

PS、板津氏は、1995年(平成7年) に知覧特攻攻撃で亡くなった1037人全員の遺影を集めます。このことは、こちらの「板津氏インタビューNO,2」で語っています。(・・・管理人)

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Last Up Date: 2010年10月5日 火曜日 10:43 am