経歴|板津忠正
- 1925年(大正14年)1月25日
- 愛知県名古屋市昭和区に生まれる。
- 1943年(昭和18年)10月
- 民間パイロット養成機関である逓信省米子航空機乗員養成所に入所。大刀洗陸軍飛行学校を卒業後台湾へ。
- 1944年(昭和19年)12月
- 台湾潮洲の教育隊を経て兵庫県加古川飛行場に転属。
- 1945年(昭和20年)
- 陸軍特別攻撃隊員となり、同年5月28日に陸軍特攻第二一三振武隊として沖縄作戦に97式戦闘機で出撃したが、途中エンジントラブルにより徳之島海岸に不時着し、知覧に帰還。その後2回の出撃命令が出るが、雨のため中止となり終戦を向かる。板津さんは「自分に命が永らえたのは自分にしかできない何かがあるからだ」との強い思いを抱く。
- 1946年(昭和21年)
- 名古屋市役所に就職。勤めながら、特攻で亡くなった多くの仲間の遺族を探し出し、特攻慰霊とともに当時の状況を遺族に説明する。
- 1973年(昭和49年)
- 復員局業務部が作成した特攻隊戦没者芳名簿を入手。これを機に、隊員の遺族や親類を捜し出して墓参し、名簿の確認や資料収集を始める。
- 1979年(昭和54)年4月
- 定年を前に名古屋市役所(計画局計画課長)を退職。本格的に特攻慰霊・資料収集に専念、全国を行脚する。
- 1984年(昭和59年)7月
- 要請を受け財団法人知覧特攻平和会館(通称:遺品館)の事務局長に就任。来館者に特攻出撃時の様子を説明する。
- 1986年(昭和61年)
- 知覧特攻平和会館の新館建設と同時に初代館長に就任。
- 1988年(昭和63年)6月30日
- 特攻で亡くなった全ての方の資料を収集するために退職。知覧特攻平和会館顧問に就任。そのかたわら「特攻の真実と平和」と題して講演活動を行う。
- 1995年(平成7年)
- 特攻で亡くなった戦没者千三十六名の遺影全員分を集める。
- 2010年(平成22年)9月30日
- 現在85歳。愛知県犬山市在住。大変お元気で、現在も講演活動を続けておられる。
- 2015年(平成27年)4月6日
- ご逝去。
板津忠正氏関連
- 1955年(昭和30年)9月28日
- 特攻隊員の精神の顕彰と世界平和の祈念を目的に、特攻平和観音像が建立。
- 1975年(昭和50年)3月
- 知覧基地北東の平和公園の中に特別遺品館建設(後の特攻平和会館)。板津さんが集めた遺品や遺影(550人分)を中心に1500点余り展示。
- 1975年(昭和50年)12月
- 特別遺品館43平方メートルを171平方メートルに増築。
- 1978年(昭和53年)
- 終戦直後に厚生省が発表した特攻戦没者数は、1015人だったが、防衛庁大東亜戦史研修室発刊の陸軍特別攻撃隊史の付録で1022人と解る。(後に1036人とわかる)
- 1984年(昭和59年)4月
- 遺品館が財団法人知覧特攻平和会館に組織変更。これを機に、資料の収集、整理、説明する人として板津さんを事務局長としてむかえる。
- 1984年(昭和59年)8月
- 641人の遺影。1036人まで後395人。
- 1986年(昭和61年)12月13日
- 知覧特攻平和会館新館オープン。翌年2月9日落成式。
- 1987年(昭和62年)1月
- 756人の遺影。1036人まで後280人。
- 1988(昭和63年)6月
- 921人の遺影。1036人まで後115人。
- 1989年(平成元年)6月
- 971人の遺影。1036人まで後65人。
- 1992(平成4年)4月22日
- 知覧の特攻おばさん 富屋食堂の鳥浜トメさん死去(89歳)
- 1995年(平成7年)
- 1036人の遺影全員分を集める。
- 2004年(平成16年)5月
- 知覧特攻平和観音堂が建て替えられ除幕式。