はじめに
板津さんは、特攻平和祈念館退官後、特攻の語り部として全国で講演活動をしています。「特攻の真実と平和」は、講演の題目です。このページでは、講演内容の一部をご紹介しています。(・・・・管理人)
プロローグ
特攻の話は、広島や長崎と違い生還した人が少ないため、間違った情報が伝わっています。
1941年、日本はアメリカと戦争になりました。その4年前、中国とも戦争を始めていました。板津氏は、1937(板津氏小学校6年生)から1945年、昭和20年8月15日(板津氏20歳)の8年間は戦争の真只中にいました。戦争が終わる時には陸軍特別攻撃隊、沖縄特攻隊員の一員でした。題目の「特攻の平和と真実」とは、鹿児島県川辺郡知覧町にまつわる特攻隊の話です。
現在、特攻作戦の飛行場の跡は、さつま芋畑、茶畑になっています。その一部が平和公園として多くの人に親しまれています。そこにある桜並木は全国的にも有名です。
特攻攻撃とは一機一艦を目指して250㎞から500㎞の爆弾を搭載した飛行機もろとも体当たり攻撃をすることです。
その関係資料の多くがこの知覧特攻平和会館にあります。
当初は、公園の休憩場という形で平和公園の中に遺品館を作り、遺品を数点並べただけのものでした。その後徐々に増築し資料を増やしていきました。 (平和会館は戦闘機のかたちにまねて作られています)
現在の特攻平和会館は、この遺品館の70メートル後方に建てられました。板津氏が集めた多くの関係資料がこの知覧特攻平和記念館にあります。
富屋食堂の鳥濱トメさん(特攻おばさん)
特攻隊員は、飛行機の整備の関係で3泊、4泊三角兵舎で泊る事を余儀なくされました。
その間、隊員達は町に出て、富屋食堂の小母さん(特攻小母さん)に顔を見せたり、また小母さんの顔を見に行ったりした後に、思い思いのところに散っていきました。
三角兵舎
特攻隊員は、飛行機の整備の関係で3泊、4泊三角兵舎で泊る事を余儀なくされました。
三角兵舎とは、特攻隊員が最後の眠りにつくところです。地面に三角の屋根を被せたようなつくりになっています。中に入ると地面から3段から4段下に下がった所で隊員が眠りにつきました。
隊員は、三角兵舎に1泊か2泊しかしませんでした。家族に特攻隊になった事を連絡するものの、それを聞いた家族が知覧に向い着いたころには、すでに出撃された後で、殆どの隊員が家族に会えずに懺悔されました。
当時の飛行場は舗装がしてなかったので、爆弾を積んだ飛行機は飛び立つことが難しく、中には爆弾の重みで谷間から出ている樹木に引っかかり殉職した隊員もいました。隊員達は下で見送る整備士や町民に対して、飛行機の右翼を振りバンクしながら「さよなら」と合図し開聞岳(沖縄)の方向へ飛んでいきました。
この知覧特攻平和観音堂は、特攻隊員を祭るべく昭和30年に建立されました。観音様の御本体の体内には、9メートル54センチの巻紙に特攻で亡くなった全員の名前が収められています。
知覧特攻平和会館
知覧特攻平和会館の 入り口には、陶画があります。
横4メートル30センチ、縦3メートル、題材は「鎮魂(魂を静める)」です。絵柄は、紅蓮の炎に包まれた隼戦闘機が今にも海中へ没しようとするときに、隊員の亡骸を6人の完全菩薩が恵みの水をかけ、菩薩の冠が落ちるのも構わずに隊員と一緒に昇天をさせる図柄です。風防に刺さった桜の小枝が外れて桜の花びらが散っている様子を描いています。
日の丸の寄せ書き色紙が飾ってあります。
ガラス張りの箱には最後の遺書や手紙が保管されています。1036人の特攻隊員の写真が壁面に飾ってあります。
井舎堂用久中佐(誠第17飛行隊長)
井舎堂用久は、第1号で突入した人です。自分の郷土沖縄に攻め込んだ艦船に向って体当たり攻撃をしました。
体当たりした年齢は17歳から32歳までの隊員です。
伍井芳夫大尉(第23振武隊)
伍井芳夫大尉は、1歳と3の子どもを両手に抱え人に渡して出撃しました。
大橋春雄少尉
大橋春雄少尉の遺書です。
結婚2ヶ月の奥さんのことを母親にお願いして亡くなっていった内容 「文子の事に関しては母上様、今後とも一層ご面倒を見てやってください。あれも正式な式を挙げれずに、常に二人で一度でよいから帰郷したいと申しておりましたが、それはできませんでした。それゆえ隣近所の方々には今だ、親しくしておらず、突然一人ぼっちでは随分苦労すると思います。女は女同士で母上様文子の事はくれぐれもよろしくお願いします。」
石川一彦大尉(第62振武隊)
石川一彦大尉が亡くなる10日目に父親に出した手紙です。 自分が特攻隊長になったことが書いてあります。
「房江は子ども二人を抱え今後苦労を多くかとと存じますが、今は全てを犠牲にして任務に邁進するときです。嫁として色々行き届かない点が多いことと存じますが小生の妻として文太郎、美代子ともに可愛がって面倒を見てやってください。とお願いしながら母上様や房江には私が特攻隊長になったことは言わないほうがいいと考えますゆえ、当分父上様の胸の中にしまっておいてください。」
母や妻を悲しませたくない心情が伺われます。
第23振武隊の色紙
これは、伍井芳夫大尉率いる23振武隊の色紙です。
甲斐玉樹大尉(第44振武隊)
甲斐玉樹大尉 特攻隊が途中で家族に帰る事は無かったが、この44振武隊の隊長が隊員へ家族のもとに帰ることを許した。その時に1泊2日ぐらい家に帰った。家に帰った両親は素晴らしく成長した息子(甲斐大尉)を見て喜んだ。甲斐大尉は自分が数日後、特攻で出撃する事を述べずに隊に戻った。両親を悲しませたくない気持があった。
井花敏男伍長(第108振武隊)
17歳1ヶ月にて・・・
久富基作大尉(第76振武隊)
9人兄弟の末っ子で長男
長男は特攻隊員になる事は無いという間違った解釈をしている人が多いが、実は違うことがわかります。
光山少尉/韓国籍
昭和18年、光山少尉は京都薬学専門学校(現・京都薬科大)から学徒出陣し、太刀洗陸軍飛行学校知覧分教所時代の知覧飛行場に滞在した。
知覧で特操一期生として教育隊で操縦教育を受けたのです。この時から富屋食堂にはよく出入りをしていた。朝鮮出身で身寄りの少ないであろう光山少尉をトメさんは何かと気にかけ、台所に立たせたり、一緒に食卓を囲んだり自分の息子のように可愛がっていました。
昭和20年、光山少尉は第51振武隊員として知覧に戻ってきました。今度は特攻隊員としてです。以前にも増して淋しそうな光山少尉をトメさんは温かく迎えました。そして、5月10日の夜、出撃前の夜にトメさんは食堂に一人でいた光山少尉を、長女の美阿小さんと次女の礼子さんと4人でいた自分の部屋に呼びました。トメさんが光山少尉に歌を歌うよう促したところ、「今夜は最後だから、故郷の歌を歌うよ。おばちゃん」と言い、歌い始めました。
アリラン アリラン アラリヨ アリラン峠を 越えていく
私を捨てて 行く君は 一里も行けず 足痛む
光山少尉は帽子のひさしを鼻の下までおろして顔を隠したが、その下から涙が流れ落ちていました。皆もたまらなくなって泣きながら「アリラン」を歌いました。
光山少尉は歌い終わると、懐から朝鮮の布地で織った黄色い縞の入った財布をとりだし、筆で「贈為鳥浜とめ殿 光山少尉」と書いた。「おばさん、大変お世話になりました。お世話になったしるしとしてこれしかありません。はずかしいですが、形見と思って受けとってください」と言った。光山少尉は1年前に母を失い、3月に年老いた父と妹を朝鮮に送り返していた。
翌日早朝、袖に日の丸を縫いつけた光山少尉は見送りに来たトメさんと握手を交わし、南の海に出撃したまま二度と戻らなかった。
上原良司大尉(第56振武隊)
相花信夫伍長(第77振武隊)
平和を愛する遺書
平和を愛する遺書があります。
「俺が特攻に行くのは皆様が後世を安楽にお暮らしできるためなのであります。どうか茂が戦死のほうにせっしましても絶対に不覚を取る事無く涙を流す事無く万歳をとないてくだされば茂は邦人と至ると思いあの世できっと喜んでおります。」
この話には実談があります。
お母さんは戦死の報を知った時に「茂ごめんね、笑って万歳を唱えることができないので」と言って畳にふして声の限りに泣かれたとの事です。
隊員と板津軍曹(出撃前の別れの杯)
特攻の攻撃前に「別れの杯」を交し出撃した。背が低い真ん中が、板津さんです。
子犬と戯れる5人の少年兵(第72振武隊員)
死を目の前にして笑顔なのは見てるほうとしては感無量の境地である。彼らの心中を悲しい表情をした子犬が物語っている。彼らは二度と帰ってくることはなかった。
久野正信中佐(二人の子どもに宛てたカタカナの遺書)
平和を愛する遺書
平和を愛する遺書があります。
「俺が特攻に行くのは皆様が後世を安楽にお暮らしできるためなのであります。どうか茂が戦死のほうにせっしましても絶対に不覚を取る事無く涙を流す事無く万歳をとないてくだされば茂は邦人と至ると思いあの世できっと喜んでおります。」
この話には実談があります。
お母さんは戦死の報を知った時に「茂ごめんね、笑って万歳を唱えることができないので」と言って畳にふして声の限りに泣かれたとの事です。
宮川三郎軍曹(第104振武隊)
宮川軍曹は新潟県出身。長岡工業学校卒業後、一旦は民間会社に就職したが大空への夢絶ちがたく、仙台航空機乗員養成所に入り、パイロットになった。その後、特攻に志願した。5月に一度出撃して、飛行機の不調で帰還。戦友と共に散華できなかったことに悩み、とめさんにその気持ちを打ち明ける手紙を書いていた。
「先輩、同期生がつぎつぎと散華し、自分たちばかり残るというのは、心苦しいことです。この心は、わかっていただけると思います。だが、決して死を早まらんつもりです。任務を完遂するまでは、断じてやります。ご安心ください。」
その後、6月6日に再度出撃し、還らぬ人となった。とめさんが宮川軍曹についてかたっているので引用します。
宮川さんが知覧に来られたのは20年5月の終わりごろと思います。雪国の人らしく色白でハンサムな方でした。前に、万世飛行場から一度、出撃したのですが、機体の故障で引き返して、一人だけ残ったのを大変気にしておられましてね。ようやく代わりの飛行機がもらえ、出撃する前夜の6月5日一緒に隊を組む仲よしの滝本恵之助曹長と二人で私の食堂に来られました。宮川さんは「あした出撃だ」とごきげんでした。帰りがけに「おばさん、あしたも帰ってくるよ。ホタルになって滝本と二匹でね。追っ払ったらだめだよ」と冗談のようにいわれました。食堂にくるとき、どこかでホタルでも見かけたのだろうと、そのときは気にもとめていませんでした。翌6日はどんより曇った日でした。この日は総攻撃の日で、朝から特攻機がどんどん飛び立ちました。夜になって、出撃したはずの滝本さんが一人でひょっこり食堂にやってきました。「宮川は開聞岳の向こうに飛んで行ったよ」といってぽろぽろ涙をこぼしました。視界が悪いため、宮川機に何度も引き返そうと翼で合図を送ったが、「お前だけ帰れ」といってそのまま飛んで行かれたそうです。夜の九時ごろでした。食堂には娘二人と滝本さんの三人。奥の広間には私と遺書を書いている隊員が七、八人おりました。すると食堂の方で、娘が「あっ宮川さんよ。ホタルになって帰ってきた」と叫びました。一匹のホタルが開けていた食堂の玄関から、すーっと入ってきたそうです。もう大騒ぎ。滝本さんはびっくりされた様子でした。
私は「みなさん。宮川さんが帰っていらっしゃいましたよ」といい、全員で「同期の桜」を歌いました。ホタルは長い間、天井のはりに止まっていましたが、すっといなくなりました。
高野正治大尉/米国籍(第113振武隊長)
下の左の人が高野大尉。兄弟はアメリカで軍人、別々の国の兄弟同士が敵対国として戦った。
渡辺静大尉/職業野球団(第165振武隊)
プロ野球の歴史は、華々しいものばかりではない。ときに、時代の大きなうねりに巻き込まれ、悲劇に見舞われたこともあった。 東京ドームにある「鎮魂の碑」と刻まれたこの石碑は、日中戦争、太平洋戦争でその尊い命を失った選手たちの慰霊のため、1981年に建立されたもの。現在、そこには69名もの元プロ野球選手たちの名が刻まれています。その一人が渡辺静大尉です。
枝幹二大尉(第165振武隊)
<出撃3日前の遺書>
昭和20年6月3日夜作戦命令下る万世飛行場に明朝出発(実際は知覧)あわただしい中に最後と思ってペンを取る。
書く事が一杯ある様で何を書いていいのやら、園部隊長不時着して同行出来ず。身不肖なるも隊長代理を命ぜられ重任双肩にかかる。願わくば大業見事完成出来得んことを。ここあし屋の町は海を渡る祭礼の港町と同一なり。ふくよかになつかしき思いあり。思いはめぐる三千里。半田のこと、名古屋のこと、東京の事、富山のこと、父上様、母上様色々有り難うございました。別に言うこともありません。唯有難くうれしくあります。最後の時まで決して御恩は忘れません。月なみな事しか出てきません。姉妹の皆さんいよいよ本当にお別れ。今でも例のごとくギャァギャァ皆とさわいでいます。科学的な死生観も今の小生には書物の内容でしかありません。国のため死ぬるよろこびを痛切に感じています在世中お世話になった方々を一人一人思い出します。
時間がありませんただ心から有難うございました。笑ってこれから床に入ります。オヤスミ
<出撃直前の詩>
あんまり緑が美しい。今日これから死にいくことすら忘れてしまいそうだ。真青な空。ぽかんと浮かぶ白い雲。6月の知覧はもうセミの声がして夏を思わせる。(作戦指令を待っている間に)小鳥の声がたのしそう。
「俺もこんどは小鳥になるよ」日のあたる草の上にねころんで杉本がこんなことを云っている。笑わせるな。
講演では、板津さんは自身のことをあまり語りません。こちらの板津じいちゃんに聞いてみよう!では、自分のことについても触れていますのでご覧ください。