板津忠正氏が紹介された記事

板津忠正氏の記事

 

板津さん関連記事

はじめに

ここでは、板津忠正氏に関連する新聞記事を一部掲載しています。新聞画像をクリックいただくと大きな画像をご覧いただけます。(・・・管理人)

知覧基地 朝日新聞1976年(昭和38)年8月9日

知覧基地朝日新聞

陸軍特別攻撃隊の振武第52隊の下平正人伍長は、飛行場から、町の食堂の女あるじ、鳥浜とめに電話をした。昭和20年5月、沖縄の日本軍が総崩れになった話であった。

鳥浜とめは特攻隊員を、自分の子どものように世話をしていた。自分の店で、隊員たちが飲食したものの代金は受け取らなかった。この基地にきた特攻隊員は、鳥浜とめと親しくなり、外出のたびに、その店に集って、残り少ない時を過ごした。平下伍長は電話でとめに頼んだ。「あした出撃するので、お願いします。飛行場へ、おかあさんの代わりに見送りにきてください」。下平伍長は長野県上伊郡の生まれ、少年飛行兵の出身で22歳であった。

戦友14人遺族探し30年 1976年(昭和51年)10月6日

戦友14人遺族探し

特攻隊員の遺族よ いまいずこに。終戦直前の昭和20年、愛機とともに沖縄の南方海上の敵艦めざして突っ込み、戦死して行った戦友14人の遺族の遺品を、30年間も捜している人がいる。特攻基地のあった新原田飛行場付近の住民と一緒に撮った写真3枚を手掛かりにしているが、まだ消息はわかっていない。

平木曹長の遺族はどこに 1980年(昭和55年)11月15日

神風特攻隊員、平木義範曹長(熊本出身)の遺族の心当たりの方いませんか。太平洋戦争末期の昭和20年3月から終戦にかけて沖縄洋上の米機動部隊に体当たりし、壮絶な死を遂げた特攻部隊の遺品の寄せ書きが、このほど36年ぶりに菊池郡で見つかった。出撃前にこの遺書をしたためた12人の若鷲たちは全員死亡が確認されているが、ただ一人熊本出身といわれる平木曹長の遺族の消息がわからない

平木曹長の遺族はどこに

生き残りの使命 1982年(57年)8月18日

生き残りの使命

毎日新聞

終戦直前、若い命を散らした特攻隊員の霊を慰めようと、隊員の遺族や親類を捜し出しては墓参し、名簿の確認や遺品、資料の収集を続けている人がいる。厚生省でも当時の資料が完璧でないため、それを再整理しながら鎮魂行脚。収集品は特攻出撃地だった鹿児島県川辺郡知覧町の知覧特攻遺品館へ寄せる一方、この行脚の日々を「特攻慰霊日記」に書きつづっている。

重荷を背負って 1983年(昭和58年)8月12日

毎日新聞

「編隊の中で、私の飛行機だけが遅れ”早く来い”と戦友が手招きする・・・。そんな夢にずいぶんうなされたものです」県少飛会事務局長、地頭薗盛雄(57)はそう言って苦笑いした。少年飛行隊は、今の14、15歳で入校、多くは20歳前後で特攻として散っていった。少飛15期の地頭薗も、特攻出撃のため知覧に移る直前、朝鮮、大邱近くの基地で終戦を迎えた。19歳だった。

知覧の夏|重荷を背負って

特攻基地・知覧の語り部 1984年(59年)6月27日

特攻知覧の語り部

読売新聞

太平洋戦争中、多くの若者たちが飛び立ったまま還ることのなかった特攻基地、鹿児島県・知覧で、彼らの死を語り伝え、余生を過ごしたいとの59歳になる元特攻隊員の願いが実現、27日午後知覧町の「特攻遺品館」にスタッフとして赴任した。板津忠正さん。定年前に市役所を退職し全国行脚して捜し求めた遺族の数は約4百。集めた遺影、遺品は1000点になる。その隊員たちの証も自分の手で守りたいと、愛知県犬山市に家族を残しての新しい出発である。

知覧で39年ぶりの終戦 1984年(昭和59年)7月31日

西日本新聞

今年もまた「8月15日」が近づいた。戦争を知らない世代が年を追って増えていく中、かつて特攻隊員だったことにこだわり続け、南海に若くして散った亡き戦友の供養のため、勤めも定年前に辞めて遺品収集に全国行脚、ことしは39年ぶりにその特攻基地・鹿児島県川辺郡知覧町で終戦の日を迎えようとしている一人の特攻隊員がいる。

知覧で39年ぶりの終戦

特攻基地で供養の人生 1984年(昭和59年)7月31日

特攻基地で供養の人生

中日新聞

「8月15日」が近付いた。かつて特攻隊員だったことにこだわり続け、南海に若くして散った亡き戦友の供養のため、勤めも定年前に辞めて遺品収集で全国行脚、ことしは39年ぶりにその特攻基地・鹿児島県川辺郡知覧町で終戦を迎えようとしている一人の隊員がいる。

愛知県犬山市三条の板津忠正さん(59)がその人。知覧町に特攻遺品館を訪れる人々に、戦争の悲惨さ、平和への誓いを訴えながら、妻の久子さんと二人でこの地に骨を埋める覚悟だ。

生き延びて今 1984年(昭和59年)8月9日

南日本新聞

悲惨をきわめた太平洋戦争。間もなく39回目の終戦記念日を迎える。いま、平和を当たり前のことと思い、あふれるほどの物質文明を享受している戦争後生まれの世代が人口の大半を占めるようになった。

生き延びて今

既にあの戦争は忘れ去られたような感じがする。その陰で、むごく苦しかった戦争体験にとらわれ続け「2度と戦争をしてはならぬ」と、懺悔と後悔の日々を送っている、かつての戦士がいる。時は流れても、いえぬ深い心の傷がある

8・15をまえに 1984年(昭和59年)8月11日

終戦8月15日を前に

出撃前のひと時、特攻隊員6人がもんぺ姿の婦人を囲んで撮った大きなパネル写真がある。左端で照れくさげに目をつぶった一人を指して、「この人、誰かに似てやしませんか」と、板津忠正さん(59)は毎回切り出す。それは、ほかでもない39年前の板津青年の雄姿なのだ。

鹿児島県川辺郡知覧町にある鉄筋2階建ての知覧特攻遺品館。7月2日、板津さんは愛知県犬山市の自宅に妻を残し、単身でやってきた。5年前、名古屋市の課長を退職。「特攻の貴重な資料が散逸するのは国家的損失だ」という信念で、亡き特攻隊員4百人の遺族を訪ね回り、遺品収集に励んだ。

特攻遺品館で元隊員が説明役 1984年(昭和59年8月15日)

特攻遺品館で元隊員が説明役

読売新聞

15日は終戦記念日 第2次世界大戦中、多くの若者たちが南海の空へ飛び立った知覧基地・川辺郡知覧町にある財団法人知覧特攻平和会館で元特攻隊員が戦友の死を後世に伝えるため、遺品館のスタッフとして訪れる人たちへ出撃当時の説明役を務めている。死へおもむく出撃を実際に経験しているだけに、戦争を知らない若者たちに強烈な印象を与えている。

第三の人生を選んだ犬山市の板津さん 1984年(昭和59年)9月1日

第3の人生を選んだ板津さん

南北ホームニュース

元特攻隊員であった犬山市西三条、板津忠正さんは、八月初めから、特攻基地であった鹿児島県川辺郡知覧町にある財団法人知覧特攻平和会館(通称、遺品館)の事務長に就任、来館者に特攻隊の出撃時の状況などの説明にあたっておられます。

元隊員が説明役に 1985年(昭和60年)7月14日

南日本新聞

「上空で編隊を組んだ隊員たちは、開聞岳の方向に飛び立っていったのであります。4月、5月の開聞岳は緑がまばゆくて、隊員の中には、祖国の見納めの薩摩富士に挙手の礼をしながら、死出の旅路についたんです。」。

元隊員が説明役に

戦火に散った青春 1986年(昭和61年)8月9日

戦火に散った青春

中日新聞

私たちに特攻命令が下ったのは、昭和20年の4月20日でした。覚悟はできている、これでお国と両親の恩に報いることができる。そう思って感動したことを覚えています。体の芯がジーンと、続く、震えるような。当時20歳でした。

夜、辞世の歌を作りました。「靖国の戦友に遅れはとらじとて、我も散らなむ沖縄の沖」というものです。

読売新聞「顔」 1987年3月10日

読売新聞「顔」

「新婚2ヶ月の隊員や、2歳3歳の幼児を残して出撃した32歳の隊員もいました。今日の日本の平和と繁栄は、この人たちの尊い犠牲の上にあるのです。2度と戦争をしてはいけません」

新築会館し、2月9日に落成祝賀会が行われた鹿児島県知覧町の知覧特攻平和会館。元特攻隊員の板津さんは、1日に何回も館内を回り、入館者にこう訴えている。

学生動員が始まった18年10月、逓信省航空局航空機員養成所に入所。20年5月、陸軍特別攻撃隊213振武隊員になり、2日後、知覧基地から97式戦闘機で、沖縄に出撃した。

特攻会館オープン1年 1988年(昭和63年)6月24日

特攻会館新館オープン

南日本新聞

太平洋戦争末期、南の空に散華した若き英霊たちの遺品などを集めた川辺郡知覧町の特攻平和会館がオープンして13日で丸1年。厳粛な雰囲気で、ゆっくり見学しやすくなったと好評で、入場者が急増、年間34万人を突破した。展示を一新した反響は、これまで空白のままだった特攻勇士の遺影を多く埋めるところまで及んでいる。

特攻の語り部退職 1988年(昭和63年)6月16日

特攻の語り部退職

単身移住、戦友の慰霊を続けて丸4年

体験に裏打ちされた特攻の悲惨さと隊員たちの心情、平和の尊さを切々と説き続けて丸4年。「生きながらえた者の使命」と愛知県犬山市から川辺郡知覧町に単身移住し、特攻平和会館で戦友たちの慰霊と顕彰に傾注した”特攻の語り部”が6月末で惜しまれて退職することになった。

「立派な会館が完成、充実した平和教育の場と評価されるようになり、労兵の役目は終わりました」と語り、郷里に引き揚げるのは特攻平和会館の板津忠正事務局長(63)。

少年飛行だった板津さんは20年5月28日、陸軍特別攻撃隊第213振武隊員として、寮機12機とともに知覧から沖縄へ出撃したが、エンジンの故障で徳之島に不時着した。

再び特攻の遺品集め 1988年(昭和63年)6月24日

第2次大戦中、沖縄戦線の空に散った特攻隊員の遺品を納めた知覧町の知覧特攻平和祈念館で、戦争の悲惨さや平和の尊さを訴え続けた元特攻隊員で事務局長、板津忠正さんが6月末で同会館を去り、会館顧問として再び遺品集めの行脚を始める。

再び特攻の遺品集め

特攻隊資料集め 1988年(昭和63年)8月15日

時と戦争 特攻隊資料集め

特攻の語り部として、鹿児島県川辺郡知覧町の「知覧特攻平和会館」の館長さんを務めていた板津忠正さん(63)が、この夏、愛知県犬山市の自宅に戻り、遺族探しと後世に語り継ぐために資料収集活動を再開している。「あと98人。私の目の黒いうちに」時間と競争するように。板津さんは終戦を迎えたのは、旧陸運最大の特攻飛行基地、知覧。「国と親の恩に報いる」と特攻隊に志願した板津さんは、三度の出撃命令を受けたが、搭乗機のエンジン不調による不時着や悪天候で出撃中止で命をとりとめているうちに、特攻作戦が中止になった。

戦友思い知覧に戻る

戦後間もないころ、知覧飛行場の滑走路の畑に、じっと座り込んでいる男の人をよく見掛けました。その人が去った後には、地面に花束がさされ、線香の燃えさしが残っていました。男の人は、人目を避けている様子でしたが、ほどなくその人は、戦時中、私の食堂にも出入りしていた元特攻隊員の青木少佐だとわかりました。

戦友思い知覧に戻る

青木さんは、死んでいった戦友に「すまない」と、一人でそっと慰霊を続けていたのです。戦時中こそ、特攻隊員は神鷲と賛美されましたが、戦後はあまりよくいわれない人もおりましたから、生き残られた方々は、随分肩身の狭い思いをされたと思いますよ。

957人の遺影が集まる 1988年(昭和63年)12月17日

特攻おばさんの回想

板津軍曹は酒もたばこもやらないまじめな人でした。出撃のときから、終戦まで知覧にはかなり長期間滞在されましたが、私の食堂にはそれほど姿を見せませんでしたね。特攻生き残りは戦後、、よくいわれませんでしたらから、遺族の前に出ることは勇気のいることだと思いますよ。一人だけ残ったという悔恨。板津さんは戦後、ずっと罪の意識にさいなまされ続けたという。

今も続く慰霊の旅 1989年(平成元年)2月11日

今も続く慰霊の旅

平成元年が幕が開けた1月8日、犬山市犬山西条の板津忠正さん(64)に、兵庫県の戦友から手紙が届いた。小さな白黒写真が同封されていた。旧日本軍の練習機「赤トンボ」の前に立つ飛行兵、大阪府出身の「小坂清一少尉」の遺影だった。

小坂君の写真を捜していることを聞いたので送ります。小坂君の出撃前、私のものと交換した写真です」と、添え書きされていた。

遺影求め全国行脚 1989年(平成元年)5月4日

知覧特攻慰霊の旅

第2次世界大戦の末期、沖縄防衛戦で戦死した特攻隊1218人の慰霊祭が3日、特攻基地があった鹿児島県川辺郡知覧町の特攻平和観音堂前で全国から遺族ら約1000人が参加して行われた。

参列者の中には、南の海に散った仲間の慰霊を続けている生存者の一人、愛知県犬山市犬山、元名古屋市市役所職員板津忠正さん(64)の姿もあった。

昭和20年3月26日、米軍は沖縄本島に上陸。日本軍は、劣勢を一気にばん回するため、特別攻撃の強化を決定。沖縄に最も近い知覧飛行場が最前線基地となり、6月初めまで沖縄に向け飛ぶ立った。板津さんは民間パイロット養成所から特攻を志願。昭和20年5月28日、同飛行場から出撃したがエンジン不調で徳之島に不時着。その後、再出撃の機会なく終戦を迎えた。

特攻隊員が慰霊の講演 1989年(平成元年)6月17日

特攻隊員が慰霊の講演

北海道新聞

若くして散った特攻隊員の遺影を捜している愛知県犬山市の元特攻隊員で現在無職の板津忠正さん(64)が本道入りし5日、札幌に立ち寄った。かつて特攻基地があった鹿児島県南部、知覧町の知覧特攻平和会館に収めるための行脚。亡くなった1026人のうち残すところ55人。「手がかかりがすくなくて。でも全員をそろえ、慰めるのが私の務め」と固い意思で歩き回っている。

特攻おばさんの死 1992年(平成4年)4月24日

中日新聞

「ゆうべは一睡もできなかった」と、犬山市犬山西三条、板津忠正さんのショックは大きい。「特攻おばさん」の名で知られ、89歳で亡くなった鹿児島県川辺郡知覧町の鳥浜トメさんに最後の別れをするため、23日、板津さんは名古屋から夜行バスで薩摩半島へ向かった。戦友によくしてくれたトメさんに恩義を感じ、生き残りの務めを果たそうと今も戦友の慰霊の旅を続けている。

特攻おばさんの死

鳥浜さん葬儀 1992年(平成4年)4月25日

元特攻兵ら最後の別れ

南日本新聞

特攻おばさんと慕われ22日夕、89歳で亡くなった川辺郡知覧町の鳥浜トメさんの葬儀が24日、同町郡の自宅でしめやかに行われた。東敏見知覧町長、元特攻兵やその家族ら町内外から約450人が弔問に訪れ、悲惨な「特攻の歴史」の生き証人だったトメさんに最後の別れをした。

無念さを映像に記録 1994年(平成6年)5月18日

無念さを映像に記録

恵那市大井町587、三宅さんは3年前から、特攻をテーマに8ミリ映画「撃ちてしやまぬ」の制作に取り組んでいる。

切っ掛けは、知覧特攻平和会館顧問の板津忠正さん犬山在住との出会いだ。5月3日、鹿児島県知覧町を3年ぶりに訪れた。板津さんは、逓信省(現郵政省)の米子航空機乗員養成所に入り、20年5月、特攻隊員となった。陸軍軍曹で第213振部隊として同28日、知覧飛行場を出撃したが、エンジン不調で徳之島に不時着。知覧特攻基地に戻り、再出撃を待ったが沖縄特攻作戦が中止、本土決戦要員として待機中、終戦を迎えた。

戦争から半世紀 1994年(平成6年)5月19日

最後の姿を克明に

賀茂郡川辺町、岩井さんは、元知覧高等学校の勤労奉仕隊”なでしこ部隊”の浜崎さん(旧姓中野)と文通を続けている。実兄の最後の様子を知らせてくれたことが縁で父親が始め、それを引き継いで今年で約50年になる。

岩井さんの兄の岩井定好陸軍少尉は特攻隊「第103振武隊」に所属。昭和20年4月13日、99式軍偵察機で知覧飛行場を出撃して行った。浜崎さんは、”なでしこ部隊”として岩井少尉の身の回りの世話をし出撃を見送った。

世代を超え歴史つづる 1994年(平成6)8月20日

世代を超え歴史つづる

元特攻隊員板津忠正さんにとって、戦後はまだ終わっていない。この半世紀、仲間の遺族を訪ね歩いた。北海道から九州まで700人に及ぶ。「国の戦後処理はでたらめでした。戦死公報が二度三度も届いた家があるかと思うと、特攻で死んだことさえ知らされていない母や妻がいました」

板津さんは、厚生省が出した特攻戦没者名簿を手掛かりに、戦友の遺族を捜し歩いた。基地でのエピソード、出撃の模様などを伝えた。無言で逝った仲間の代わりに、その遺言状を配達する気持ちになった。

雲の墓標新たに5柱 1994年(平成6)12月19日

沖縄戦特攻隊員の遺品確認

太平洋戦争末期の沖縄作戦で戦死した特攻隊員のうち、新たに5人の遺品が愛知県犬山市の元知覧特攻平和会館館長板津忠正さんの手で確認された。

板津さんは、19日夜、隊員たちの遺影や手紙、招集令状などを持って鹿児島県川辺郡知覧町の同会館へ向かい、他の特攻隊員1026人の資料を集めた会館の展示室に収める。

戦果より死への特攻 1995年(平成7年)1月11日

戦果より死への特攻

太平洋戦争末期、日本軍は特攻作戦を展開した。陸軍では1035人が特攻機で戦死(知覧特攻平和会館調べ)海軍機でも2526人が戦死(海上自衛隊鹿屋航空基地史料館調べ)した。多くの命を奪って1945年8月15日、戦争が終わった。

その日、愛知県犬山市在住の板津忠正さんは、鹿児島県知覧町にあった陸軍知覧特攻基地にいた。前日に出された出撃命令が中止になった。「なぜだろう」とみんないぶかった。玉音放送は聞かされなかった。

沖縄に散った4特攻隊員 1995年(平成7)4月9日

命の尊さ語り継ぐ

太平洋戦争末期の沖縄作戦で、海軍航空隊の特別攻撃(特攻)に参加した愛知県豊田市の草薙隊の隊員の遺影や遺書などが、遺品収集を続ける板津忠正さんの手で、8日までに鹿児島県鹿屋市の鹿屋航空基地資料館に送られ、戦友たちの遺影と50年ぶりに再会した。

命の尊さかたり継ぐ 1995年(平成7年)8月1日

戦後50年平和を考えよう

原水爆禁止犬山市協議会と「平和の犬山市を築く市民の会」は6日、犬山国際観光センターで終戦50年を記念した「映画と講演の集い」を開く。

上映するのは神山監督の「月光の夏」。終戦間近、佐賀県の国民学校を特攻隊員たちが訪れ、ピアノでベートーベンの「月光」を披露。市民たちがピアノを「平和の祈念碑」として保存し、演奏の主を捜す戦後を描く。映画の上映は午前10時からと午後2時30分からの2回。

午後1時からは、鹿児島県の「知覧特攻平和会館」初代関館長の板津忠正さんが「特攻の真実と平和」と題して講演する。

生存者は神風の記憶を忘れずに 1996年(平成8年)

神風の記憶忘れずに

CAF航空ショー95で明らかになった興味ある物語の中で、これはただひたすら驚くに値する。50年前、板津忠正は日本帝国陸軍軍人で、神風パイロットとして「神聖なる風(神風)」作戦に投入された。そして九死一生を得て生き残った。今日の板津の使命は当時とまったく異なっている。CAFCo1.波多野龍の報じる様に、板津は神風の記憶を後世に残すために戦っている。

戦争の怖さ再認識 1996年(平成8年)8月7日

中日新聞

平和の尊さを訴える活動をしている犬山市の「すいとんの会」が6日、同市の前原台集会所で平和の催しを開き、集まった子どもたちやお年寄りたちが元特攻隊員で鹿児島県の知覧特攻平和会館館長を務めた板津忠正さんらの話を聞いた。

悲惨見て聞いて考えて

「悲惨」見て聞いて考えて 1996年(平成8年)8月15日

中日新聞

歴史料料だけでなく、美術品もある。「空爆の墓標」は名古屋広告デザイン専門学校校長の安藤日出彦さんが空爆の記録を絵画に焼き付けた38の作品群。「日の丸」などをモチーフに、板切れや鉛、石膏、土壁などを貼り付け、文字通り灯油で燃やしたり、バーナーで焼き付けたり、焦土の記憶を表現している。

悲惨見て聞いて考えて

ある特攻の遺書から 1997年(平成9年)8月13日

ある特攻の遺書から

この夏、一人の白髪の男性が北海道を巡った。白装束姿で数珠を持ち、観音像に手を合わせる。脳裏に浮かんだのは、戦友たちの若いままの顔だった。

愛知県犬山市の板津忠正さん。鹿児島県知覧町の知覧特攻平和会館の初代館長。第2次世界大戦中の陸軍特別攻撃隊の生き残りだ。

1945年(昭和20年)5月18日が板津さんの命日のはずだった。

平和会館元館長を招き 2000年(昭和21年)5月9日

板津さん招き

飛行機に深い思い入れのある人たちで作る飛縁会(藤田政治会長)は、14日に福知山市のスカイランドホテルで講演会を開くため、会員外にも来場を呼び掛けている。講師には元特攻隊員で町立知覧特攻平和会館の元事務局長(館長)、板津忠正さんを招く。聴講無料。

特攻体験生々しく 2000年(平成12年)8月29日

特攻体験生々しく

戦争の悲惨さや平和について語り継ぎ、子どもたちの心の豊かさを目指して活動している犬山市のボランティアグループ「犬山すいとん会」が28日、発足20周年記念の「文化と平和の集い」を同市前原の前原台集会所で開いた。参加した子どもらが戦争体験者の話を聞くなどして平和への思いを新たにした。

命の尊さかたり継ぐ 2000年(平成12)12月24日

命の尊さ語り継ぐ

鹿児島県知覧町は、太平洋戦争末期、旧日本陸軍の特攻隊の出撃基地となった。隊員らの遺書や手紙は、今も見る者の心を揺さぶる。「戦争の世紀」といわれる今世紀。特攻隊の悲劇は戦争観やイデオロギーを超えて、平和と繁栄の中で若者や中高年らが見失いがちな生きる意味を静かに問いかけている。

特攻の悲劇語り継ぐ 2003年(平成15)7月10日

特攻の悲劇語り継ぐ

生き残ろうという気持ちは毛頭なかった。犬山市在住で元特攻隊員の板津忠正さんは、隊員らの思いを今に伝えようと全国で講演活動を続ける。操縦桿を握って米空母に突っ込んでいった若者たち。生き残ったことへの苦悩。決して肯定できない歴史。終戦から58回目の夏がもうじきやってくる。

「靖国の ともに遅れはとらじとて 我も散らむ 沖縄の沖」

板津さんはこう書き残して、草っぱらの滑走路から出撃した。

翼が教えてくれたもの 2003年(平成15)7月24日

翼が教えてくれたもの

かけがいのない命を戦火に散らした特攻隊員の生きざまを通して、若い世代と共に「本気で生きること」の意味を考えてみませんかと訴える講演会「翼が教えてくれたもの」が24日午後1時半からつくば国際会議場で開かれる。

講師は、多くの特攻隊員を見送って特攻の母と慕われた鹿児島県知覧の「富屋食堂」女主人、鳥浜トメさんの次女の赤羽礼子さんと、奇跡的に生き残った元特攻隊員の板津忠正さんの二人。

平和の尊さ考える 2003年(平成15)年8月9日

読売新聞「顔」

犬山市東小学校ではこのほど、平和学習に取り組む6年生が、知覧特攻平和会館初代館長、現顧問で同市に住む板津忠正さんの戦争体験を聞きました。

板津さんは昭和20年5月、特攻隊員として鹿児島県にある知覧基地から特攻出撃しましたが、エンジントラブルで不時着して帰還。再度、出撃を熱望したものの、6月に沖縄が陥落して特攻作戦が中止、終戦を迎えて復員しました。

「自分だけが生きて帰ってきたことが、いたたまれずつらかった」と、その当時の思いを振り返る板津さん。

特攻隊の悲劇語る 2003年(平成15年)12月18日

読売新聞

犬山市在住の元特攻隊員の板津忠正さんが17日、豊橋市の南牛川の私立桜丘中学校で特攻隊をテーマに講演し、全校生徒270人が熱心に聞き入った。同校では3年生が「平和・いのちの大切さ」をテーマに総合学習に取り組んでおり、特攻の語り部として活動している板津さんを招いた。

若者に平和の大切さを

戦争犠牲者記録伝えて 2004年(平成16年)1月11日

長い間、特攻隊の歴史は封印されてきた。連合軍の艦船を攻撃したことから恨みを買い遺族に危害が及ぶのを恐れて、終戦後、軍が隊員の名簿をすべて焼却した。

渡辺静大尉/職業野球団(第165振武隊)

戦後は随分と偏見が多かった。「特攻隊は犬死にだった」「右翼思想を助長する」とか。美化するつもりはないが、「殴られるのが嫌で志願した」と隊員の死を冒涜するようなことを平気で口にするのが許せなかった。特攻隊の死は無駄ではない。

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