初代館長時代、知覧特攻平和会館での語り

特攻案内人板津忠正

知覧特攻平和会館 初代館長 板津忠正

特攻の語り部

はじめに

板津忠正氏は、知覧特攻平和会館館長時代、特攻の語り部としてお話をされております。ここでは、その時の内容を紹介します。(・・・管理人)

“特攻”案内人

おはようございます。ようこそ遠くから特攻遺品館においで下さり有難うございました。

知覧町は薩摩半島の中央、やや南のところにあります。・・・・・・これが知覧町の模型なんですね。この低いところが知覧の待ちの中心地、山あいに囲まれた人口一万五千のしずかな城下町、ここに武家屋敷があります・・・・・・ここに信号があります。この永久橋というのが信号とならんで麓川にかかっております。

ここにキサヌキハラという台地があるわけなんですね。町からずっと上っております。そして枕崎の海に方から徐々に茶園がつづいてずうっと台地を形成しているわけですね。・・・・・・このキサヌキハラが昭和十六年太刀洗陸軍飛行学校知覧分教所として開校され、そして昭和二十年に沖縄にいちばん近いというところから陸軍最大の特攻基地に変貌してトコなんです。現在、この位置に遺品館があるわけなんですね、飛行場内にあるわけです。そして表に出ますとね、給水塔が昔の姿のままで残されております。

そしてこの、特攻隊員が泊った三角兵舎・・・・・・飛行場にいちばん近いところに特攻隊員が泊ったのです。ここには碑が立っております。案内板が道路ぎわに立てられております・・・・・・そしてこの戦闘を指揮した戦闘指揮所がここにあり、無線施設がすうっとこれだけあって、特にこの戦闘指揮所の隣りの無線室は特攻隊員の『われ突入す』という無線を直接傍受したとこなんです。そうして・・・・・・ちょっとこれから説明しますけどね、隊員たちは内地はもとより、中国、満州、朝鮮から続々とこの知覧へ集まってきたわけなんです。

そして隊員たちは、ここからお父さんやお母さん方に連絡をとって・・・・・・面会に来たときにはすでに出撃された後で、隊員は肉親に会うことなく出撃散華されているわけなんです。現代のように飛行機が発達したり、あるいは新幹線でも通っていれば、わけなくここへ来れたんでしょうけど、当時、二日も三日もかかって、ようやく辿りついたときには、一泊か二泊しかしなかった特攻隊員は、この肉親に会うことなく出撃をしているわけなんです。・・・・・・出撃は朝の払暁攻撃が多かったので・・・・・・三時半か四時に起きてこの森の中をずうっとこの戦闘指揮所まで歩いてきました。もうそこにはすでに二百五十キロの爆弾をかかえた特攻機がエンジンを廻していたわけなんです。・・・・・・爆弾が重かったので機関砲は全部おろし。無線機でさえわずかに編隊長、あるいは小隊長機が持つのみで、あとの僚機たちはどのような船に体当りしたかということも、この無線室には傍受ができなかったわけなんです。・・・・・・出撃は一機一機、いちばんこちらまできて、こちらから全力をもってずうっと出撃をするのですけど、現在の飛行場のように滑走路が舗装してあるわけじゃないし唯の草原、なかなか浮きあがらず、ようやくのことにいちばん向こうへいって浮くんですね、そしてゆるい上昇旋回でもって上空で編隊を組むのですけどなかには一ぺんは浮いてもね、爆弾の重みで再びすうっと沈み、前方の松林に落ちて殉職された隊員も何機かあるんですね。・・・・・・上空で編隊を組んだ隊員たちは、下で見送る整備兵あるいは住民の方がたが手を振っているのにこたえて、「さようならァ」、そう言いながら翼を振りながら、バンクをしながら、この方向、開聞岳の方向へ飛び立っていったわけなんです。

今日は非常に晴れて、開聞岳が美しく見えております・・・・・・そこに開聞岳の写真もあります・・・・・・はい、この開聞岳九百二十二メートルあるわけなんですね。この四月、五月というのは緑がまばゆくて、そのかたわらを通りぬけた隊員たちは、名残を惜しみながら永遠に祖国と別れを告げて死出の旅路についたわけなんです・・・・・・振り返り振り返りこの美しい開聞岳、祖国の見おさめのこの緑まばゆい薩摩富士が次第に小さくなっていく姿を、お父さんやお母さんが「しっかりやってこいよー!」、そう言って激励をしているように隊員たちは感じられたというんですね。

そしてまた整備の関係で三泊四泊とこの三角兵舎に泊ることを余儀なくされた隊員は、町へ出ます。しして町のこの橋の手前七十メートルのところにあった富屋食堂というところに立ち寄るのです。この食堂のおかみさんが特攻おばさんといわれた鳥浜とめさん、当時四十三歳、現在八十二歳で町に元気でおられます。当時、隊員たちをヒジョーに可愛がり隊員たちも慈母のごとく接したのです。そのため三角兵舎から町へ出ると必ず富屋食堂に立寄っておばさんの顔をみたり、おばさんに顔を見せたりして、それからは筋向かいの兵たん旅館であったこの内村旅館、あるいは橋のたもとにあった永久旅館、あるいは思い思いのところへ散っていったわけなんです。・・・・・・その隊員たちの思いでの地、このキサヌキハラの一角、ちょうど六十メートル先のところに若人の霊の永遠に安かれと願って特攻観音堂が昭和三十年に建立されました。一尺八寸の観音様の体内には、九メートル五十四センチの巻紙に当時沖縄で亡くなられた陸軍の全特攻隊員千十六柱、お名前を一人一人ずうっと謹記し、しまってあるわけです。昭和四十九年特攻銅像“とこしえに”が出来、そして昭和五十年にこの遺品館がここに出来たわけです。

よくここへ来られる人がね、この人ね・・・・・・この人がね、私によく似てるというんです。ねぇ・・・・・・皆さんどう思われますか。  あのね、みんな笑っておられますけどね、あのね、私、笑って下さいとお願いしたわけじゃなくて、よく似ているか似てないかを聞いてるんですね。おなじポーズをしますでね、見てくださいね。  似てる筈です。これ、私本人ですから。

私しゃ本人です。なぜ私がここに立っているかと申しますと、私も昭和二十年五月の二十八日、ここから二百五十キロ爆弾を抱えて出撃したんです、あとわずかで沖縄に突入できるというときにエンジントラブルが起きてきまいました。

当時っ!四月の十六日以降沖縄の日本の飛行場は全部敵の戦闘機に占領されるところとなり、常時六十機ないし九十機の敵戦闘機が内地から飛んでいく特攻機を待ちうけて片っ端から落すべく、完全に邀撃態勢をつくっていたわけなんです。

そのためこの南西諸島の島づたいにずうっーと⊂(-(工)-)⊃丿クマ昇竜拳!に向えばわけなく沖縄に行けるのですけど、その途中の島の上空の制空権を完全に取られていたわけなんです。そこを通る特攻機は片っ端から落とされていきました。そのため私たち五月二十八日出撃のものはこのコースを飛ぶことを避け、進路を東にとり、海上すれすれ超低空で攻撃にむかったわけなんです。

なぜっ危険をおかしてまで超低空で行ったかと申しますと、皆さん方、爆音がして空を見上げたとき、白い雲の中にぽつんと小さな飛行機ね、あ、あそこに飛行機がいるなということがすぐにわかりますね・・・・・・しかし、この真っ青な空ですとね、爆音がすれど姿がみえんが、どこにいるかな、と思ってしばらく探された経験があると思いますね、今日のように真っ青な空はね、飛行機が・・・・・・小型機はヒジョーに見にくいわけなんです。そしてこの青空よりもさらにこの海原のほうがもっと青いわけなんですね・・・・・・上空でアメリカ戦闘機・・・・・・超低空で行く特攻機ね、なかなかみつからないわけなんですねぇ。そしてもしみつかったとしてもね、反転をして急降下をしてバババババ!と射って離脱する時にジャボン!と海に落ちる可能性があるんでね、あまり近寄れないわけですね・・・・・・遠くからポンポンと射っても当たりっこないわけです。平行で射てば尚更当るものじゃないわけなんです。ましてやッ皆さんのように目が黒ければともかく、アメリカの方は目も青いでしょ、青い目で青い海をじーっと見つめてもね。

なにか見えにくいんじゃなかろうかと思うんですけど。それはともかくとして、海上すれすれ超低空で行ってエンジントラブル、エンジンストップすれば、即ッ海没ですね!犬死になるわけですね! 私のエンジントラブルを早くも察知した長機が私の方を振り返り振り返り・・・・・・早く離脱せよと言うんですけど、そう簡単に皆と別れる気持ちにはなれなかったわけなんです。当時、私は二十歳!

板津忠正氏とトメおばさん

左上が板津忠正さん その隣がトメおばさん

生まれた時は別々でも死ぬ時は一緒だと誓いを立て知覧特攻基地から二百五十キロ爆弾をかかえて出ながら、あとわずかで祖国のため肉親のため突入ができる時にこのエンジントラブル、口惜しいじゃありませんか・・・・・・なんとかプロペラ廻ってくれ、廻ってくれと念じながら、そしてこの、あと・・・・・・この、ええ・・・・・・離脱をせよと言われたときでもね、ダダをこねるようにあと少しだからついて行きたいといってついて行ったわけなんですが、いよいよ最後のドタンバ、どうにもならなくなって、涙をのんで皆と別れを告げたわけなんですがね、そして上昇旋回をして島の方へずうっと行ったわけなんですがね、ようやく島が右下に見えたころ・・・・・・とうとうプツンをエンジンが止まってしまったわけなんです。この・・・・・・そして・・・・・・二度とかからないことを確認してスイッチを切り、やむなく機首を下げていったわけなんですね。そしてずうーっつ降下していって、ようやくのこと水ぎわに・・・・・・砂地といえど水ぎわ固いんですが、ほんの少し滑走したんですが矢張りそこは砂地、デェーンと引っくら返って真っ逆さま、背面になってしまったんです。その瞬間のショックはね、バアッとここで受けたわけなんですね。人間ね、ズガイ骨を骨折すれば一たまりもありませんけどね、人間の腕がくだけたくらいでは命にかかわりがないというところでショックをやわらげ・・・・・・そのとき火が出なかったというのが、この世に私がいるわけなんです。よくこの地上で自動車がぶつかって炎上して焼死体となったということが新聞紙上で報道されておりますが、そのとき火がでなかった幸運、もう一つの幸運が重なって六月の六日ふたたび知覧の三角兵舎のここへ来ることが出来たわけなんです・・・・・・まわりには自分の隊は一人もおらず、戦闘指揮所へ日参をして、早く出撃命令をくれ、命令をくれテ何度も何度も言ったおかげでようやく出撃命令を貰って、やれ嬉しや明日はいよいよ皆の後を追えると喜んだも束の間、その日が来たら雨のため流れてしまったわけなんです。

六月は入梅なんですね、梅雨なんですね、二十年の六月は来る日も来る日も雨ばかり、その雨のため出撃命令も流れる。六月の二十三日沖縄陥落と同時に沖縄特攻作戦は全面的に中止、本土決戦要員のためその後も知覧にとどまることになり、あのザンキに堪えない八月十五日終戦を迎えて復員することになるのですが・・・・・・お前はっ!特攻隊員のために何かすることがあるのだっ、そのために命永らえてやったのだ、と言われるような気がして、その後、自分の隊はもちろんのこと全国を行脚してこのように写真とか遺書とか最後の手紙、遺品とか寄せ書きをずうーっと集めてまわったわけなんです。・・・・・・誰もスポンサーがあるわけではなし、全部私が自費でやったわけなんです・・・・・・そして昭和五十年この遺品館がここに出来たときにここへすべてを出し、あと九年間も行脚をつづけて、よーやく一とおり日本じゅう行脚がおわったところで愛知県の犬山から単身でここへ来ているわけなんです。今年の夏、来たばかりなんですね、そうして現在、私の力足らず四百十人の遺族より探すことができず、現在ここに六百五十八の遺影しかないわけです・・・・・・あとのこの三百六十人の方は、わが子、兄弟がこの知覧から出撃したこと、あるいは他の基地から出撃したことも全くご存知なく、このように遺品館が建っていることも、毎年五月の三日、観音様の前で慰霊祭をやっていることさえご遺族もご存知ないわけなんです。・・・・・・これから私ふたたびこの・・・・・・ええ・・・・・・命ある限りふたたび行脚をつづけて、ずうーっとあと三百六十の方全員の・・・・・・千十六柱のお写真をここに揃えるまで頑張りたいと思っているわけなんです。それというのもこの特攻おばさんはじめ知覧の人たちに、ヒジョーにお世話になり、そのご恩に報いるため、そして隊員たちが一泊二泊の知覧の人たちにお世話になったこの三角兵舎のご恩は、誰が返すのかというとこの生き残った私しか返す方法がないわけなんです。そのため私がここに立っているわけなんです。

あと二分くらいで終わるんですけど・・・・・・この向う側にね、私の襲撃の時の写真があるわけなんですよ。これだけの方たちがずうっと向うへちょっと無理ですのでね、ちょっとここで、かいつまんでお話を申し上げますとね、むこうに十二人並んだ写真があるわけなんですけどね、この・・・・・・その中の誰かを・・・・・・これをどなたかそれを私かと当ててくださいと言うとね、百ぴゃく百ちゅう当てて下さるんですね。というのはね、私ね、ご婦人くらい背が低いですね。皆さん大きいですね。だからね、私、一人だけぽつんと谷間になってますからね「ああこの人だ」と、みんなずばり当るわけですね。

しかし、背の・・・・・・あの・・・・・・しかし、私、はじめから軍人であったわけじゃございませんね・・・・・・あの、皆様ご承知のようにね、宮崎に航空大学というのありますね。あの、そこのまぁ全身のような逓信省航空局乗員養成所という民間パイロットの養成機関があるわけですね・・・・・・そこを卒業してですね、まぁ、平時であれば民間航空のパイロットにあるいはなれたかもしれないんですが、戦時がヒッパクして、まったく民間機が飛べなくなったデ、軍へ入れられて、そしてこの戦闘機操縦者となって特攻隊員になったわけなんですね。・・・・・・そしてね、この、ウインドの中の展示しているなかにね、私の書いたもの、私の真筆があるわけなんですね・・・・・・。そしてそのまわりにね、ずうーっと四十五点の特攻隊員の団体写真・・・・・・団体写真がずらっと並んでますね。その四十五点のうち二十九点までは私のカメラで納めてネガで持っていたのであのように顔もはっきりし、名前も全部わかるわけなんですね。

現在すでに三十九年経っていますからね、これから見つかる写真は色が黄色くなって、果して私が移したように写るかどうかギモンなんでね。しかしながら、こうやって展示しておるとね、知覧へ来なかった人はね、知覧は特攻を美化してね、再軍備をはかるんじゃないかと言われる方がありますけど、歴史の一齣、この真実をね、後世に残す方がいいか、残さない方がいいかというと!私は信念をもって残さなければいけないと思って収集したわけなんです。そしてこの方々の死の無意味でなかったアカシをたてると共に今日の平和がこういう尊いギセイの上にあり、平和の有難さ平和の尊さをずうっとうったえ、二度とふたたびこれからの若い人をこの悲惨な戦術のギセイにさせないためにも、ぜったい戦争はやっていけないことを、ずうっとうったえるため私がここに立っておるわけです。

あの・・・・・・蛇足ですねどね・・・・・・あの、ね。私ね、名古屋市のね、課長をやっていたんですね。区画整理の専門なんです・・・・・・区画整理。・・・・・・この前までそこの課長をやってました。しかしね、課長は誰でもやれますけどね、これだけはね、日本中で私しか集めてないんですね。私だけ。やる人ないんですよ。私だけ・・・・・・。だから課長現職でやめました。本来ならばね、五十五歳で停年になってもね、六十歳まで五年間は栄町の地下の駐車場に勤めることが出来たわけなんですね。しかしそんなことをやっていたら、この貴重な資料が一年一年失くなっていくわけです。そのためにはここへ、今年の夏ここへ来たわけなんですね。え、あなたあのときの新聞記事見てくれましたか。それァ、どうもどうも・・・・・・」

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Last Up Date: 2010年9月30日 木曜日 6:32 pm